華容 |
| 冷え冷えとした館の空気は、幼い頃から苦手だった。 久方振りに訪れた自邸の、静かな、しかしきりと張り詰めて動かない空気の中、エストはそっと目を伏せる。 研究熱心とは言え、エストもリューガ本家の端くれ。ロストールで何か起こればすぐに情報が届く。 …否、届ける人物が貼り付いている、といった方が適切であろう。 エストにとっては煩わしさしか感じないが、彼の周りには常に、彼の動向を監視する者と彼を守る者、二種類の人間が居る。筆頭貴族に２人兄弟とあれば、当人達の心中に関係なく、ハイエナが集るのは当然の事で。それを厭ってエストは貴族街を出たというのに、影の様な追従者は後を絶たず、滅入る気持ちは時を経て慣れへと変わっていた。 しかし、流石の彼等も今回は戸惑いを隠せなかったらしい。 ―――ロストールに異変有り。 詳細は掴めず、と頼みもしないのに報告してきた男の、本当に把握しかねるらしい様子に、ふと胸騒ぎを覚え。エストは研究を放り出してリューガ邸へ帰還したのだ。 王妃と兄との、いつもの小競り合いだといい。 心からそう願いつつ。 …だが屋敷が昔以上に静まり返り、執事さえも音を立てぬようにして気配を―――部屋に閉じ篭った主の気配を窺うのを見て、エストは、兄の秘密に関する最悪の事態が起こったのだと悟った。 普段なら口を衝く「兄さんは…？」との簡単な問いが、咽喉の奥で潰える。 たった一語でも、何かの起爆剤になり兼ねない。 そんな細い糸にも似た緊張が、窓布を閉め切った故の薄暗さと相俟って、一層重苦しく邸内を締め付けていた。 「―――あら…、エストお兄様？」 其処へ、刹那。 鈴を転がす様な声音が響く。 「！！ ビアトリス……」 エストが振り向いたまま、二の句も告げずに居る内に、屋敷のもう一人の住人―――ビアトリス・リューガが優美な足取りで近付いてきた。 「お帰りなさい。ご機嫌は如何？」 彼女の声は、この重い空気をも越えて、エストの耳に心地良く届く。 まるで人の声ではないかの様に。 それに気付いてエストの背筋に微かな戦慄が走る。 「…ビアトリスも…元気そうだね。変わりなくて何よりだ」 辛うじて押し出した語尾の震えが、嘘を伝える。 元々美しかった妹は、数ヶ月見ない間に、更にその美貌を際立たせていた。 彼等兄弟とは異なる緑味を帯びた金髪も、玉の様な肌も、より艶を増して輝いている。 生き生きと―――という表現は、だが何故か当て嵌まらない。 その微笑みを絵に留めれば聖女と映るであろうに、彼女の仕草ひとつ、眼差しひとつから立ち昇る艶めかしさは、この世のものとも思えぬ凄絶な色香を醸していた。 （いつから―――？） かつて庇護の対象であった少女が、いつから「女」に変わってしまったのだろう。 解らない。覚えてなどいない。 間近に立ったビアトリスが、エストを見上げ、ゆっくりと瞬きしてくる。 一度、二度と揺れる睫の下から、濡れた碧の瞳が彼を見詰めている。 途端、絡め取られる様な錯覚に陥って、エストは息を呑み一歩下がったが、その背後は直ぐに広間の厚い壁に遮られてしまった。 「兄さんには…会ったの？ ビアトリス……」 出来るだけ優しく、いつもの調子で語り掛けたつもりだ。 なのに上擦って響いた己の声が、エストの無意識下の恐怖を尚の事昂らせる。 ―――この妹は、何かを知っているのではないか。 ―――兄の秘密を、館を覆う何か危険な匂いの源を、知っているのではないか。 その妹は微笑を湛えたまま、滑るような動作で再びエストに近付き、触れんばかりの距離で見上げてくる。 彼女の息遣いに合わせて、眩暈がしそうな程の女の匂いが立ち昇る。 エストはごくりと生唾を飲んだ。 ―――こんな花を、見た事がある。 甘ったるい蜜を滴らせる、色鮮やかな―――毒の花。 「ねえ…答えてビアトリス！ 兄さんは―――」 「エストお兄様」 そっと、彼の心臓に手が置かれた。 家族や恋人なら唯の愛撫と取れるその動作に、エストは、心臓を抉り出される様な予感を覚えた。 「…お兄様は、何も、心配なさらないで」 毒々しい程に色付いた唇が、馨しい息で囁きを紡ぐ。 真珠の様な歯の隙間から、緋の舌がちろりと覗き、エストの脳髄を痺れさせんばかりに蠢く。 「何も、心配いりませんわ」 笑みの形を保った唇は、そのままエストの唇に重ねられた。 触れるだけなのに、しっとりと濡れた柔らかな感触は、悪寒がする程に淫靡で。 エストが目も閉じられずにいると、視線を感じたか、長い睫毛が上がり―――一度、二度とゆっくり瞬く。 蝶が鱗粉を撒き散らすにも似たその動き。 幻惑的な翅の下に、碧色の宝石を煌かせながら。 ―――いつからこんな、纏い付く様な視線を送る女性になったのだろう。 エストには解らない。 もしかしたら、始めからそうだったのかも知れない。 だが今、溢れんばかりの艶を肢体に漲らせた妹を目にすると、初めて出会った頃の彼女の姿は奇妙なほど曖昧になり。 そう遠くない筈の過去の記憶が、蜜に満たされ鱗粉に覆われて、音も無く消し去られてゆく。 「ビアトリス、其処に居たのか。―――エスト…？」 館の主の声が、空気を震わせた。 エストが我に返るよりも早く、ビアトリスの肢体は離れ、声の方へと歩み出す。 妹の背の向こうで、彼等二人の兄は「帰っていたのか」と気まずげな表情を浮かべている。 再び張り詰めていく冷たい空気の中で、 「また晩餐の時に……エストお兄様」 ビアトリスの声だけはやはり、軽やかにエストの鼓膜を打つのだった。 …そうして、広間にはまた、静寂が訪れる。 鱗粉が貼り付いた様な肺に、エストは漸う息を吸い込む。 甘い匂いが体を巡り、腕を上げて滴を拭う事さえ億劫に思われた。 （いつから？ ビアトリス……） 彼女が纏う災いの予感。 神々しさより寧ろ禍々しさを湛えた、魔性の美しさ。 「…それでも…僕は、君に、運命の力を感じたんだ………」 霞む記憶の彼方で唯一つ、宝石の様に輝く碧の瞳。 全てが艶めかしい今の彼女の中で、それだけは、かつてと変わらぬ強い光を放っていた。 だからこそ恐ろしかった。 それきりエストは口を閉ざし、涙が頬を伝うに任せた。 冷え冷えとした館の空気よりも、来るべき破滅の匂いが、甘く、彼の胸を締め付けていた。
「ハピネス・マーチ」と同時に頂いた、 |