光の世界、闇の世界
――― 光の世界、闇の世界 ―――
目を閉じるのが、恐い。
そこにある暗闇が、心底恐ろしいと感じる。そんな事を思うようになったのは、何時からだろう。
気が遠くなる程長い間、闇はただ一人の友であり、自らを包む柔らかな殻であり、世界の全てだった。当たり前のようにそこにあり、恐怖を感じる事の無かった、ぬるま湯のようにぬるく優しい世界。なのに今何故、それを恐ろしいと感じるのだろうか。
いや、解かっているのだ。それはこの暗く小さな世界に射した、一条の光の所為だ。
目を閉じるのが、恐い。目を開いた先にある世界もまた、闇であるというのに。
カーテンを閉め切った部屋の中、俯いていた顔をゆっくりと上げる。そこには、その光の正体があった。
「もう・・・行かれるのですか？ミル様」
「申し訳ありません、姫様。」
ミル、と呼ばれた少年が、何時もの笑顔で彼女、アトレイアに笑いかける。
王妃の密偵、『聡き流星』ミル・フリント。
彼は何も無いこの部屋に光を招き入れ、その強い輝きで濃い陰影をこの部屋にもたらし、アトレイアの足元に闇よりも暗い闇を落とす。彼がこの部屋を去る瞬間、アトレイアは一人の孤独に、目の見えなかった時よりも、より深い闇を感じるのだ。
クローゼットの奥に消える背中に、毎回のように心の中で叫ぶ『行かないで』『傍に居てほしい』。だがそんな言葉は喉の奥に飲みこむ。そんな束縛の言葉を口にすれば、この人を永遠に失ってしまうのではないか、そんな事を漠然と考えてしまう。
あの『光の王女』と呼ばれるティアナ王女のように、自分が明るく美しければ、そんな言葉も容易く言えるのに。しかし彼を繋ぎ止める術を持たないアトレイアに言えるのは、この青年を送り出す言葉だけだ。
「そうですか・・・またいらして下さ・・・・・」
諦めと共にとはいえ、何時もはすんなりと言えるその言葉、だが今日に限ってアトレイアは思わず声を詰まらせた。知らず知らずの内に、自分の頬を涙が一筋伝って落ちるのを感じたからだ。はっと顔を上げると、ミルの驚いた顔がそこにあった。
なんと不様な所を見せてしまったのだろう、アトレイアは慌てて涙を拭い、無理矢理に笑顔を作った。
「ご、ごめんなさい。なんでも無いんです。ただ・・・ただ少しだけ寂しいのです。一人になるのが恐くて・・・。」
それ以上は声にならなかった。この人を失いたくない。会う度に毎回のように嚥下され、胃の腑に溜まった言葉達が、形を変えて次から次へと頬を伝い流れ落ちる。
ミルはその涙を拭おうとしたが、出しかけた手を止めて少し考えた後、王女の両目をそっと手で塞いだ。
「え？」
瞬きの瞬間、そこにあった手が離れたと思うと、通り名である『聡き流星』の名に相応しい素早さで、ミルの姿はアトレイアの目の前からかき消えた。
「ミ・・・ミル様？何処に・・・」
アトレイアは先程までミルの居た場所に駆け寄り、辺りを見回した。突然一人になった心細さが全身を襲い、心は張り裂けんばかりに痛んだ。思わずミルの名を大声で叫びそうになる。
「ミ・・・！」
「ここに居ますよ、姫様。」
部屋中に反響する声に、アトレイアは驚いて辺りを見回した。
「ど、何処にいらしゃるのですか？」
「ここです、貴方の隣ですよ。」
しかしミルの姿は何処にも見えない。それでも彼の声と気配が全身を優しく包むのを、アトレイアは感じていた。
「私は行かねばなりません。ですが、たとえ姿は見えなくても、たとえどんなに遠くにいても、私は何時もこうして姫様を見守っています。もし貴方が望むなら、何処からでも貴方を助ける為に馳せ参じましょう。どうか私を信じて、勇気を出して下さい。」
心のこもった言葉に、心の中で陰鬱ととぐろを巻いていた闇が、驚く程鮮やかに晴れていく。『見守っている』。その言葉の前には、恐怖も孤独も無力だった。
「はい、私は・・・、私は貴方を信じます。」
アトレイアは何度も何度も頷いた。頷く度に、熱い涙が床へと零れ落ちる。
「よかった。それでは失礼します。」
「はい、またいらして下さいませ。」
風を切る音が耳元でしたかと思うと、今まで暖かく周りを包んでいた気配がなくなった。ミルは行ったのだろう。
「ミル様・・・私の・・・」
アトレイアはミルが去った部屋の中心で祈るように手を握り、そっと瞳を閉じた。閉じた先の暗闇に、もう孤独を感じる事はなかった。
目が見えるようになった事で知った、闇より暗い世界。だが、アトレイアはもう一人ではなかった。
少し前まで遠くに聞こえていた喧騒は、今は耳をすませば聞こえるほど近い。リューガ家の起こした反乱は、瞬く間に城内と市街を恐怖と混乱に陥れた。
隣にいる女密偵ヴァイライラの傷口を押さえながら、アトレイアは部屋の真ん中で膝をついていた。
「くう・・・退路は断たれたか・・・申し訳ございません、アトレイア様」
苦しげな女密偵のその言葉に無言で首を横に振ると、アトレイアは注意深く耳を欹てた。リューガ家私兵の足音は、もうすぐそこまで迫っている。
この状況下で、彼女が唯一頼れる人物ともいえるミルは、カルラ軍迎撃の為に出撃中で、この王都には居ない。城は占領され、助け手は怪我を負い、逃げ道は全て塞がれている。アトレイアは迫り来る恐怖に目を硬く閉じた。
（こんな時は何時も・・・ミル様・・・あ・・・）
アトレイアは顔を上げて部屋を見渡した。退路はまだある。そう、彼が使っていたあのクローゼットの奥の秘密通路。絶望と孤独を刺し貫く希望の光は、何時もあそこからやって来た。あの扉を通りぬけた先には、光射す眩しい世界がある筈だ。
クローゼットの前に、ミルの去り際の背中が浮かんで消える。その幻に惹かれるように、アトレイアはヴァイライラの体を支えたまま、すっくと立ち上がった。
「私は貴方を信じます、ミル様。」
勇気を奮い立たせる為にあの時の言葉を呟くと、アトレイアはクローゼットに向かって力強い一歩を踏み出した。
その先にミルの姿がある事を信じて。
うちのサイトの二周年記念として『ビクター通り商店街』のよん様から頂きました。
位置づけとしては「竜を食む鳥〜２０．脱出〜」の直前を舞台にした作品です。
「竜食鳥」はどちらかというと日常描写はすっとばして、物語がガンガン進んでいくタイプな上、
ジルオール原作中の時間軸に起きた話も省くことが多いので（汗）、このようなお話を頂け感激至極です。
お恥ずかしい話ですが、クローゼットからの脱出というのも、
主人公の出入り口がクローゼットだったのでそのまま使っただけで、あまり深く考えいなかったもので…（苦笑）
そのあたりをピンポイントついてこられたよん様の目の付け所が素晴らしいです。
しかし自分の作品から刺激をうけて新しい物を作っていただくというのは、
二度目ですが、何度頂いてもなんともこっぱずかしいもんですね。（照）
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