竜を食む鳥
〜１６．ゼネテスの捕縛〜

　カルラの撤退は非常に迅速であり、ロストール側の舌を巻かせた。
一晩で文字通り煙の如く消えていったのである。
ロストール側に追撃する余力がある訳もなく、
カルラの進撃に端を発した第二次ロストール攻略戦もここに終結したのである。
青竜軍の撤退は即座に王都にも伝わり、多くの国民は胸を撫で下ろした。
ゼネテスは、
「裏では、ロストールとディンガルの争いよりも、
もっとやっかいなことになってるのかもしれんな。」
と呟くほど嫌なものを感じたネメアの凶報がカルラの伝令により、
世に知れ渡ったことに多少複雑な感情を抱いた。
しかしとりあえず勝ったのである。
当面の危機は去った、あくまで目の前の危機が去っただけではあるが…
序盤戦の圧倒的戦力差をを考えれば素晴らしい成果と言って良い。
「俺たちの勝利だ！」
「奇跡だ！」
「ゼネテス・ファーロス総司令万歳！」
などの声が響き渡り、兵達が戦勝を喜び合うのも無理からぬ事であった。
その日のうちに簡単にだが戦勝を祝う宴が開かれ、
出された食物は粗末ながら皆おおいに歌い踊り勝利と生還を祝いあった。
ゼネテスもエリエナイ公レムオン・リューガや王女ティアナ・リューの失踪など、
頭の痛い出来事を一時思考の外に追い出し楽しい時間を過ごし床についた。
床に入ると再び頭が痛くなる。
政敵に致命的な秘密を握られたレムオンの失踪はともかく、
自らの婚約者でもあるティアナの失踪だけは皆目見当がつかなかった。
シャリと名乗る子供が誰に許可を得たでもなく城に出入りしていたという怪情報もある。
王族のアトレイア・リューをたいへん可愛がっているとはいえ、
母であるエリス・リュー王妃の心情を察するとゼネテスは身を切られる思いであった。
今思えば空中庭園での一件が引き金だったのかもしれないとゼネテスは思い始めていた。
レムオンの政治的生命が断たれる遠因となったことを考えれば意外と重要な事件である。
ルブルグ伯タルテュバが自らの劣等感を付け込まれ、
化け物になり集められた人間たちに襲い掛かった事件のことである。
いや集められていた面子、つまり主賓はゼネテス、アトレイア、ティアナ、レムオン。
そしてレムオン護衛としてのビアトリス、アトレイアのエスコ−トをしたミルであった。
その時ティアナの元には誰も助けに向かわなかった。
いや正確に言えば少し違う。
ゼネテスは怪物と対決し、ミルはアトレイアを庇い、ビアトリスはレムオンの盾になった。
その際ビアトリスがティアナに向かおうとした、レムオンの進路を切ったのである。
レムオンはビアトリスの肩と腕に動きを封じられた。
結局死の危険を前に彼女が一人孤立したのである。
どうということはない、はずだとゼネテスは思った。
しかしいくら強かでも檻の中の小鳥に過ぎない。
そこを取っ掛かりに誰かに付け込まれたのかも知れぬ。
もう少し気を配るべきだったか…
そんなことを考えながらいつしかゼネテスは眠りについていた。

　夜半、ゼネテスは人の気配で目を覚ました。
宴といってもゼネテスが飲んだ酒量は微々たる物だ。
ゼネテスはそっと枕もとに置いた愛剣七竜剣を握りながら、
半身を起こし辺りを見まわした。
しかしそこには漆黒の闇が広がるばかり、目を凝らしても同じ事であった。
ゼネテスは釈然としないものを抱えながらも再び寝台に身を横たえた。
次の瞬間ゼネテスの上に誰かが乗りかかったのである。
危険を感じたゼネテスは声を上げようとするが、
何か柔らかいものに唇を塞がれ声がでない。
一瞬のもみあいのなか七竜剣は弾かれたのか、ゼネテスの手は七竜剣に届かない。
必死に顔を背けるとようやく襲撃者の顔、姿が闇の中に映し出された。
「ビア…トリス？ビアトリス・リューガ！」
童女の様に微笑むビアトリスだが良く見ると
その肢体を隠しているのは肩からかける薄い布一枚であった。
一瞬唖然となったゼネテスを尻目にビアトリスの唇は
まるでゼネテスの頬をなぞる様に動き耳元で囁いた。
ゼネテスの脳髄がその言葉の意味を把握した時には最早手遅れであった。
それは眠りの魔法であった。
その強烈な魔力は精神修養を積んだゼネテスすらあっという間に深い眠りに追い込み、
ゼネテスの首から腕から足から次々力が抜けていった。
「おやすみ。」
ビアトリスは再びその唇に口付けをすると、手を叩き外に控えている兵を呼んだ。
幕舎の外に控えていたのはシドア侯率いる一団であった。
ゼネテスは縄や鎖で雁字搦めに縛られると四頭だての馬車に乗せられた。
御者台にはユーリスとレルラ＝ロントンが既に乗り込んでいる。
「侯爵様お待たせ致しました。ゼネテス・ファーロスの身柄を拘束致しましたわ。」
ビアトリスは恭しく、中年のロストール貴族に頭を下げた。
流石に剣狼を捕縛するという大仕事のためかビアトリスの額には汗が浮かんでいた。
薄絹をかしづくその肉感的な肢体から花粉のような甘い体臭が匂う。
「後は侯爵様が一声かけてさえ頂ければ。」
「う、うむ。」
シドア侯は一声上げるのを思わず躊躇った。
目の前に跪く美しく可憐なリューガの令嬢に、何か禍禍しいものを感じ取ったからである。
そう。言うなればまるで虫を集め自分の養分とする食虫花のような…
しかし既に後戻りできないところまで来ていた。
息を大きく吸い込むとシドア候は覚悟を決めた。
「ぜっ全軍！王家簒奪を企む逆賊ファーロス家の
当主ゼネテス・ファーロスの身柄を手に入れたぞ！！
かかれっ、かかれっ！一兵も逃すな！！」
その声と同時にシドア侯配下の兵たちが貧民平民たちに襲い掛かった。
戦勝を祝う和やかなムードに包まれゆっくとねむりについていた民兵たちは、
完全に不意を突かれ戦う術を持たなかった。
さらにシドア侯配下の兵たちは口々にゼネテス・ファーロスの身柄を拘束したことを叫んだ。
これによりロストール王国軍の指揮系統と同時に士気も完全に崩壊。
貴族たちは次々シドア侯側に参加し、もはや一方的な虐殺と化していった。

「西だ西へ血路を開け！」
幕舎から飛び起きたミルは必死に叫んだ。
彼と行動をともにするルルアンタも大声を上げる。
ミルは自分の油断に舌打ちした。
対青竜軍の激務から解放された反動でぐっすりと深い眠りについてしまったのだ。
人材が居ないためにミルにかかる負担は非常に大きいものであったからだ。
ミルの絶叫を聞き民兵達は必死に西を目指し始める。
「！」
視界の端に大型の馬車が爆走する姿を捉えた。
ミルの密禎としての直感が追えと告げるが、今はまだ追うことが出来なかった。
ゼネテスが捕縛されたなど信じ難い情報であったが、
ゼネテスの幕舎付近から貴族たちが反乱したことを思えばおそらく真実なのだろう。
そして貴族の反乱となればあの女、ビアトリスが一枚噛んでいる事ぐらい簡単に察しがついた。
今のロストール軍に全体を指導できる人間はミルしかいないのだ。
もとより貴族たちの多くはシドア侯の反乱に乗じただけで、
組織的な統率が取れているわけでは無い。
ある程度の数の民兵たちが戦場を脱する事ができた。
朝になるまでにはミルは残存兵、いや既に難民と化した一団を辛うじて纏めた。
そしてその中にティナ・ミイスの姿を探した。
果たして彼はすぐに見つかった。
ミルとルルアンタ、ティナは互いに疲れた顔をして、
その着衣と武器には血がこびりついていた。
「一体なにが？」
ティナは首を振った。
部外者の彼にしてみればいったいなにがおこったのか、
それすら判らず混乱に巻きこまれたのだ。
「貴族の……リューガの反乱だ。
おそらく窮鼠と化した冷血の貴公子が動いた。」
ミルはティナの目を見て話す事が出来なかった。
ティナにも予感のようなものはあったのか驚いた風も無く淡々と言葉を紡いだ。
「……そう、カルラが何時また来るかわからないのに、大丈夫なのかしら。」
「すまん。」
「あなたが謝る事じゃないわ。」
ティナは踵を返し馬に乗った。
「リベルダムへ帰ります、あなたはどうするの？」
「追う。将軍を奪還する、ファーロス家を守る。兵の後は頼む。」
そして自分の後背を指差した、そこには多くの難民たちが座り込んでいた。
ティナは馬上から辺りを見まわした。
「……って、ちょっと。」
ミルとルルアンタが居たところに目を戻した時、二人の姿は既に無かった。
「こいつらもリベルダムへ連れてけってか？」
彼は多少自棄気味に叫ぶ。
「…まぁクリュセイスは難民を全員面倒見るつもりらしいから良いとして、
エリス王妃が捕まったって、ちゃんと援助金は貰えるのかしら。」

　ミルとルルアンタは街道を髪を振り上げ疾走した。
風の様にシドア侯たちの陣地を掛け抜けビアトリスの後を追った。
相手は馬車でありさらに半日以上先を行っている。
ノーブルを越えロストールに到るまでまだ日がある。
二人は走り続けた。
その姿を見たものたちは一体何事かと思ったが、
構わずに旅人駿馬全てを追い抜き風を巻いて走った。
そして二度ほど夜を越えた昼下がり、ついに馬車をその視界に捉えたのだ。
ミルはその体を躍動させさらに速度を上げた。