竜を食む鳥
〜２９．黒の祈り〜

　ルルアンタにオルファウスを、安全な所へ連れて行く様に促しながら、
ミルも宙に飛び上がった。
ミルが直前までいた岩に衝突したドルドラムの一撃は、
いとも簡単にそれを塵と化してしまった。
ドルドラムの戦術は防備をまったくかんがえず、
ただ真一文字に敵を斬撃粉砕することを真髄とする。
力自慢のドワーフらしいといえばドワーフらしい、まさに豪快無比の斧法であった。
それだけに当たってしまえば即致命傷となるほどの威力を秘めている。
次々岩から岩へ、足場から足場へと飛翔を続けるミルに、
オイフェのエメルの弓から放たれた、疾風のごとき矢が襲いかかる。
ミルは器用に岩陰に逃げ込みながら、それをやり過す。
が、リベルダムで、ウルカーンで、罪深き者の迷宮で、そして山賊の砦で、
様々な戦場をともにした相手だ。
お互い手の内を知り尽くしているため、滅法やり難い。
ミルの辺りに点在する岩の陰から、オイフェへ徐々に迫るやり方も、簡単に看破され、
ドルドラムの執拗な攻撃の前に苦戦を強いられていた。
意を決したミルは岩の上に登ると、上から二人を見下ろした。
ドルドラムがハンマーをふり上げ飛び上がり、オイフェが必殺の狙いをつけた刹那、
ふっとミルの姿がうすれていったのである。

　ドルドラムは突如相手が視界から消え去るという事態に総身が粟立った。
着地するなり辺りを見まわしたが、いない。
オイフェに目をやると、彼女も愕然とした表情のまま、なにかを必死に探している。
つまり彼女も見えていないのだ。
（魔法か、いや、しかし！）
ミルは魔法も使う事ができるが、所詮は下手の横好き程度の代物であった。
ならば、いったいなぜ忽然とミルは消え去ったのか！
ドルドラムは、オルファウスを避難させた後、岩の上から戦況を見守り、
機をうかがっているルルアンタを見た。
褐色の髪をしたリルビーの少女は、
驚きというより不思議そうな目で、二人を見ていたのである。
（ルルアンタにはミルが見えているというのか？）
それはこの豪胆なソリアス教の神官戦士を、心底から戦慄せしめた。
そして次の瞬間、ドルドラムの左手に気配を感じると、反応する間もなく、
強烈な膝が脇腹にたたき込まれ、ドルドラムは悶絶して大地に膝つき倒れ伏した。
オイフェは今度こそ、姿を現したミルを見失なうことがないように、慎重に狙いを定めた。
ミルはゆっくりと舞う様に動き出すと、ミルが二人、じきに三人となり、
さらには徐々に薄くなっていくではないか。
ミルはデコイダンスやフェザータップを極め、さらに完璧に気配を断つ術を身につけている。
それが殺気を持った敵のまえから、姿を消すという奇跡を生んだのだ。
そのためミルに対しての殺気をもっていない、
ルルアンタの目にはまったくかわらないミルが写っているのである。
ミルがドルドラムに一撃を加えたときさえ、ルルアンタの目にはミルがリズムを取りつつ横に流れ、
そのままゆるやかな弧をえがきながら、ドルドラムに近づいていったとしか映っていない。
それこそ、ドルドラムやオイフェの驚愕している理由がわからず、
驚いていたのである。
ミルにしても、これは意図したことではない。
ただ、己のデコイダンスが想像以上に効果を発揮している、としか思っていない
「くっ！」
オイフェの視界から完全に姿を消してしまったミルに対し、
滅茶苦茶に矢を放つが、当たるはずもない。
ミルはオイフェの後ろにやすやすと回り込み、両の脇に手を回し後頭部で手を組んだ。
がっちりと両肩と首の関節がきまった。
そのままミルはオイフェの足を刈り、大地に組み伏せてしまった。
「はぁ。はぁ。はぁ。」
オイフェが肩で息をしながらも、必死に抵抗するが、
後ろから締め上げられている以上、それは無駄な抵抗であった。
このとき、ようやくドルドラムが得物を杖にゆっくりと起き上がった。
ミルはドルドラムに背を向けて寝転がっている形になっている。
後ろから殴りかかってやろうかとも思ったが、実際に行動することは不可能であった。
いつの間にかルルアンタが小刀の冷たい刃を、ドルドラムの喉もとにつきつけていたのだ。
「おじいちゃん、動いちゃだめ。」
「さすが、というところじゃのう。勝てそうもないわい。」
ルルアンタの声に、ドルドラムは軽くため息を一つついた後、武器を捨て両手を頭上に上げた。
そこで、ようやくミルもオイフェを解放したのであった。

　そのとき、男の笑い声が響いた。
皆が、声の主に顔を向けると、いつからそこにいたのであろうか、
灰色がかった黒衣のダークエルフが岩壁に寄りかかっていたのである。
「何だ？　人が一仕事してるって時にこんな大勢でチャンバラかい？」
「貴様は…！」
「ジュサプブロス…。」
たちあがったオイフェとドルドラムの声を待つまでもなく、
ミルにとっても忘れることが出来ない男だった。
無精ひげを生やし、色眼鏡をかけ、油っけのない肩までかかる金髪という特徴的な容貌。
だが、この男を見た時もっとも忘れられない部位は、色眼鏡に隠されている目である。
（また、こいつか！）
ミルがごくりと唾を飲み込み、立ちすくんだことを知ってか知らずか、
オイフェはずんずんとジュサプブロスに詰め寄っていった。
「ジュサプブロス！なぜネメア様を次元のはざまに落とした！
貴様のねらいは、破壊神ではないのか？」
「破壊神ウルグなど、俺にはどうでもいいことだ。奴もしょせん、人間と同じだ。」
ふてぶてしい笑みを見せたジュサプブロスに、
いままでミルたちの後ろに隠れていたオルファウスが前に出た。
「…まさか！」
「…ん？　あんた、ハイエルフのパルシェン、だね？
そんな恰好だから気付かなかったよ」
「パルシェン…？全エルフを束ねる長…。この猫が、そうなのか？」
全員の視線がオルファウスの頭に集中した。
確かに、本当のことを言わない人物だとは思っていたが、
ここまで大きな秘密を平然と持っていたとは思わなかったのだ。
オルファウスはすまなそうに、少し頭を下げた。
「すいません。ミル。隠していたわけでもないのですが、
名乗るほどのことでもないと思ったので。
ま、その話はあとです。あなたは何を企んでいるのですか？」
「ハイエルフのあんたならわかるだろ？
人間どもからこの世界を取り戻すにはあのお方に復活してもらうしかない。
で、復活の方法を知るために邪竜でも起こそうかな…と考えたわけだ。」
ジュサプブロスはそこまでいうと、ふいに後方に目をやり、二度手を叩いた。
「さあ、出番だ。」

「ゼリグ！どうしてここに…？」
ジュサプブロスに促されてゆっくりと現れたのは、
オイフェの仲間であるゼリグその人であった。
驚いた表情を浮かべ、赤い長髪を翻してゼリグのもとへ駆け寄ったオイフェ。
その返礼は腹部への強烈な一撃であった。
「ど、どうし…て…。」
オイフェは気を失い、崩れ落ちた。
ミルとルルアンタが止めるまもなく、ドルドラムがゼリグを押さえ込もうと飛びこんだ。
しかし、信じられぬことにゼリグは、いとも簡単にドルドラムの剛力を引き剥がしたのである。
「な、なんと！？」
驚愕したドルドラムに、天高く振り上げたゼリグの拳が叩きこまれ、
「がは…っ！」といううめき声とともにドルドラムは大地に叩きつけられた。
ミルとルルアンタが駆け寄り、抱き上げた時、
ドルドラムの顔はぐちゃぐちゃに潰されており、もはや虫の息であった。
ジュサプブロスは気絶したオイフェを小脇に抱えると、その光景を見て満足げに頷いた。
「よし、じゃあ、行こう。救世主が待ってる。」
「待て！」
テレポートを使い、消えたジュサプブロスとゼリグ。
彼らを追おうとしたミルの腕を、ひしと掴む指があった。
ドルドラムが消え入りそうな声で、ミルに語りかけたのだ。
「…よもや、このわしが一発でやられるとはな…。
ミル……。オイフェと………ゼリグを…頼む。」
「任せろ！必ず、助ける。必ず、おれが！」
「………………。」
ふっと死微笑を浮かべ、ドルドラムは力尽きた。
ミルは両目に浮かんだ涙を拭うと、遺体の両手を組んでやり、
ルルアンタが可愛らしい布をその顔にかけてやった。
「ミル…。
薄情なようですが今は急いで邪竜アズラゴーザの復活を止めに行かなくてはなりません。
封印は、この断層の奥にある洞窟の中です。行きましょう。ミル。」
ミルとルルアンタ、オルファウスは頷き合い、
悲しみを振り払うように、底にある洞窟まで駆け下っていった。
洞穴の中の通路は狭く凸凹で、先ほど以上に、崖を降りているような印象がする。
暗闇に包まれているので、足元さえも頼りなかった。
そのため足を踏み外してぱっくり口をあいた下の穴に落ち込まれないように、
ミルは大変な用心をしておりてゆかなければならなかった。

――そこは真っ暗で、穴のなか全体に濃い霧のようなものがたちこめていた。
ルルアンタは自分のからだが繊細な粒子と化し、気体となり、
重力のない原子となって、霧と混ざり合うかのような錯覚を覚えた。
三人は無事に洞穴の底に着いたのだった。
ミルは辺りを見まわしてみたが無駄で、どこもかしこもまっくらだった。
「そのダークエルフが邪竜へのいけにえか…。」
「そういうことだ。さあ、仕上げといこう。」
悲しげな声が、あまり遠くないところから聞こえてきた。
少なくともミルの耳にとどく範囲の所だ。
はぐれない様に、オルファウスを胸に抱いたルルアンタの小さな手を、
しっかと握り締め、ミルは気配を探りながら、奥へ奥へと歩いて行った。
ミルたちは、ついに祭壇の場に辿りつくと、ミルは一気呵成に飛び出した。
「オイフェを返せ！システィーナの伝道師ども！」
それをエルファスは驚いた表情で、ジュサプブロスは呆れた様に見つめた。
「やれやれ、こんな所まで来ちゃうのか。
やっぱり、ちゃんと始末しとかないとあとで困るね。
よし、ゼリグ、もう一仕事だ。彼らを、殺してしまってくれ。」
ジュサプブロスの後ろに控えていた、
ゼリグがのっそりとミルとジュサプブロスの間に立ちはだかった。
ゼリグの後方に控える救世主と、黒の祈り。
その彼らのさらに後ろにある祭壇のたもとにオイフェはいるのだ。
（約束がある。なんとかできないのか。）
ミルは腰を落とし、ゆっくりと拳を構えた。

　意志というものが感じられない、ゼリグの目に射抜かれたミルは、
全身にさぁっと鳥肌が立つのを感じた。
殺気…ではなかった。
まるで、くらがりから、ティラの娘にみつめられているのに、
気が付いた時のような恐怖がミルの全身をとらえていた。
ゼリグは祭壇の上から突如襲いかかってきた。
それまでのゆっくりとした動きが、まるで嘘のように。
あまりに動きが早いので、オルファウスの目には黒い影にしか見えなかったが、
ミルとルルアンタには、それが人の姿をしているのが、はっきりとわかった。
ミルはオルファウスを突き飛ばし、床で反転すると、人影に向かい合った。
彼の表情は、ボルダンの表情ではなかった。
その目はまるで獲物を狙う瞬間の化物のように、妖しい白い光をうかべていた。
（意識が無いのか？操られている？）
ミルは拳を放った。
ゼリグは勢いを殺さぬまま、かかとで体を回転させて半身になり、拳を避けてしまった。
拳を避けた半身のまま、右手がミルの前に突き出された。
ルルアンタがミルに飛びつき、押し倒してくれたから辛うじて避けることができたが、
それがなければ直撃を受けていただろう。
屈強なドワーフ戦士であった、ドルドラムを一発で葬ったほどのゼリグの一撃を。
ミルはルルアンタを抱きしめながら、一回転して立ちあがり、ゼリグに向かい合った。
ルルアンタに一言耳打ちすると、今度はミルがゼリグに飛び掛った。
胴を真横に薙ぐような蹴りを放つと、ゼリグはボルダンにあるまじき身軽さで宙を舞った。
そして、宙からミルへ蹴りをうった。
信じられないほど強烈な蹴りで、両の手を十字に組んだ腕ごと折るような、
遠慮というものがまったくない蹴りだった。
吹き飛ばされたミルが、辛うじて受身をとったと見るや、
ゼリグはそのまま一気にケリをつけようと、前へ出た。
その時、ルルアンタが手持ちの片手剣の鞘を握ると、ゼリグの足元へ叩き付けた。
鞘は見事ゼリグの足の間にからまり、ゼリグは大地に転がった。
ミルはゼリグの後ろにまわると、オイフェのときと同じように、首と肩の関節をきめた。
「ルルアンタ！七色のなんこうを、ゼリグに！」
この時ミルは勝利を確信した、ここまで有利な体勢になれば、いくらゼリグ相手といえども、
少なくともルルアンタが、七色のなんこうを用意する時間くらいは、確実に押さえ込めると思っていた。
だが、ゼリグはミルの想像を遥かに超えていた。
それだけにミルの腕の中でゼリグが動き出した時、ミルは胃が縮み上がる程の恐怖を覚えた。
（両腕を折ってでも脱出するつもりだと！）
ミルの束縛から脱出するためとはいえ、両腕を失ってなにをするつもりなのであろうか！
それはミルの理解を超えた行動であったのだ。
「ミル、もう少しだけ頑張って！」
ルルアンタが必死に駆け寄り、七色なんこうをゼリグに塗り付けたのと、
骨が一際大きく軋んだ後、嫌な音とともにゼリグが後背のミルを払い落としたのは、
ほとんど同時であった。