竜を食む鳥
〜３６．黄金の娘〜

　レムオンの反乱の傷もようやく癒え始めた、ロストール王国の王都ロストール。
随分と殺伐とした空気が流れていた王都も、
ここに至って随分と柔らかな雰囲気取り戻しつつあった。
それは旧リューガ邸を基地にして、復興活動を指揮していたアトレイア王女を中心にしたグループ。
ミル、ルルアンタ、オイフェらの仲間たちも同じで、彼らの周りはほのぼのとした空気が流れていた。
今日は復興団の活動もお休みという事で、ミルはオイフェと闇の勢力の活動について調べ、
それも終えて邸宅をプラプラしていた。
すると中庭でお掃除と洗濯をしているアトレイアとルルアンタを見かけ仰天したのだ。

「あ、ああーっ、何してるんですかっ。」
「ルルアンタさんと一緒にお洗濯ですよ。」
「えっ？」
「ミルも一緒にお洗濯しない？気持ちいいよ！」
「ええ、お洗濯が、こんなに気持ちの良い物だとは知りませんでした。」
楽しそうに笑う二人を見て、ミルは目を白黒させた。
流石にいくらなんでも不敬なのではないかとミルは思ったのだ。
「やめてください。王女様がそんなこと。恐れ多いです。」
「そうですか？」
「そうですかって。あなたは王位継承権を持つお姫様じゃないですか！」
「でも市井の人間なら誰でもやることでしょう？」
「まぁそうですけど…あっ、そのパンツ、僕の…ダメっそれはダメ！」
ミルはアトレイアが手にした洗濯物をひったくった。
「照れてるー。いつもあたしが洗ってるのにね。」
「それとこれとじゃ話がちがうって！」
ガヤガヤと騒いでいた、ちょうどその時、今はアトレイアを手助けしている、
執事のセバスチャンがやって来て、アトレイアに耳打ちした。
「エスト・リューガ博士がここに残っている研究書を
引き取りにいらっしゃったそうので、御挨拶に行ってきますね。」
ミルはアトレイアの後ろ姿を見て、いきなりリューガの次男坊が帰ってきた意味を考えた。
（城で何か動きがあったのか？）
そんなことを考えていると、ルルアンタの言葉にミルは再び仰天してしまった。
「いってらっしゃーい。ミルとあたしに残りはまかせといて。」
「えっ、僕もやるの？」

　そのエスト当人が今回王都に帰ってきたのは、兄レムオンの手紙が切っ掛けであった。
「危急、すぐ戻れ」
非常にシンプルなその手紙を受けたエストは、研究もそこそこに王都に戻ると、
早速現在は王城に居を移しているレムオンの元を訪ねてきた。
エストは支配者が変わったのである意味当然だが、随分と城の雰囲気が変わったな、
という事を考えながらレムオンの執務室を叩いた。
そこには、憔悴しきったレムオンがいた。
「に、兄さん…？」
エストは敬愛する兄のやつれぶりに愕然とした。
頬がこけ、眼窩は黒く窪み、蝋燭のように白く痩せ衰えている。
激務が続いているという話は聞いていたが、一体なにがここまで兄を追い詰めたのか、
レムオンの姿はまったくエストの想像を超えていたのである。
そしてレムオンは適当な椅子に座ったエストに向かって、
「リューガ家の財産をもってロストールから脱出しろ。リューガの社稷を守れ。」
と驚天動地の言葉を言い放ったのである。
「はぁ！？」
エストは驚き、椅子が倒れるのも構わず勢いよく立ち上がった。
兄を信頼しているエストも、その突然の命令はまったくわけがわからない。
不信の眼を向けると、レムオンはいかに現在のロストールが対外的に危険な状況であり、
内政面でも幾多の難題を抱えているかを語った。
そして最後に執務室の椅子に深く身を沈めボソリと呟いたのだ。
「俺は、あの女が、恐ろしい。」
それは、ぞっとする様な一言だった。
その一言だけで、執務室だけでなく、王城の空気が凍りつくような……そんな一言だった。
エストはレムオンの憔悴が全て一人の女の扱いに苦慮してのことだと知った。
レムオンが言ったロストールを取り巻く状況などは言い訳でしかなく、
自分を「あの女」の傍から、できるだけ、できるだけ、
遠ざけておきたかっただけなのかもしれないとすら感じた。

　ビアトリス・リューガ。
父母から受け継いだ黄金色に輝く畑を弟と守っていた農民の娘は、
今や奇跡の名将ゼネテス刑死の後を継いだロストール王国の総司令であり、
王国最大の軍事力を擁する存在だった。
咎人を兵士として登用するという奇策を実行に移したビアトリスは、
竜殺しとしての力を使っての恐怖の鞭と、豊富な財力を駆使しての飴の両輪で、
瞬く間に罪人軍を纏め上げたのである。
それだけではなく、彼女の旨酒の芳香にも似たカリスマ性は、
罪人軍だけではなくロストール王城の奥深くまでも、色濃く漂いはじめていた。
ありとあらゆる男が膝をつき、大地に額を擦り付けずにはいられない女、
それがビアトリス・リューガであった。
レムオンの恐れは、程度の差はあれエストも漠然と感じている恐れである。
ビアトリスの顔を思い出そうとすると、なぜかクロースなど、
軽い服装を身にまとった彼女の姿が浮かんでくる。
そして、そのビアトリスは必ずと言っていいほど、
肩や胸、ふとももがしどけなくはだけさせていて、
雪のように白い肌をエストの脳裏に焼きつけさせるのだ。
ビアトリスは美しいと呼ぶには、あまりにも圧倒的で、あまりに強制的な魅力を持っていた。
ビアトリスは己の無限のソウル、成長限界がないという特性を言葉としては知らずとも、
自分の実力と将来性を誰よりも知っていたのだ。
貴族の都合で農婦として静かに暮らすという未来を奪われた彼女は、
その悔しさや絶望を、自分の力でロストールの頂点に立ち、
いずれ世界をその手中に収めようという、野望に変換することで、
禁呪を自在に操るほどになった魔力や想像を絶するカリスマ性をここまで成長させ続けた。
レムオンは、この段になりこの可能性の女神の野望に薄々気付きはじめると同時に、
その野望の根幹にある貴族に対する感情を強く感じ始めたのである。

晴れたある日、エストは郊外で兵の調練をしているビアトリスを一度見に行った。
その姿は現実味が無いほどに美しかった。
鎧姿で馬にまたがり、手足のように軍隊を操るその姿は絵画のようですらあった。
だが、同時にその目と頬と唇はしっとりと潤い、陽光に妖しく光る。
長い手足が動くたびに、耐え切れぬほどの色香が漏れ、男たちを誘う。
思わず目をそらしたエストは、兵隊達を見てぎょっとした。
荒くれ者たちの濃い髭に覆われたその顔は、例外なくだらしなく口を開き、
舌なめずり、これ以上にないほど欲情し、瞳には狂気にすら似た光を宿らせていた。
その凄惨な獣欲を意のままに操る女猛獣使い……
彼らはビアトリスのためならば、全てを成し遂げ、全てを殺しつくすだろう。
突然エストは手で両手を覆い、悲鳴を上げた。
その兵隊たちと自分とが同じであると知ったからである。
もし、聖女の様な微笑みを湛えた彼女が、己の耳元に、熱い吐息とともにあの声で、
私のためにレムオンを殺してと囁いたら、抗いうるのか？
答えはエスト自身にもわからなかった。
こみ上げる嘔吐感を抑えながら、エストは逃げるようにその場を去った。
エストが、再び国外に出たのはその直後の事であった。、
そして、ほぼ時を同じくして大陸を戦慄が貫いた。

　東の死神、動く。
ロセンのカルラが大号令を発し、突如バイアシオン内海を越えたのである。
暗愚王ペウダが収めていた東方諸国を滅ぼし、
誇り高き自治の歴史を誇る自由都市リベルダムをも壊滅させた青竜将軍カルラ。
そのカルラが今再びロストール攻略を果たすべく動きだしたのだ。
その兵力は青竜軍全体の九割以上にも及び、ロセン総督ブゾリ率いる守備隊を残し、
青竜将軍カルラ・コルキアは持てる戦力を全て動かしたのである。
この時期リベルダムでは解放軍が内部分裂を起こし、
リーダーのクリュセイス・クロイスが行方不明になるなど、大混乱に陥っていた。
もともと青竜軍に比べて微小な戦力しかもたない解放軍は、
青竜軍の妨害を行う力を完全に喪失していた。
その機を逃さず、征服帝ランガスター・ディンガル、朱雀将軍アンギルダン・ゼイエンら、
かって誰もが成し遂げられなかったロストール王国征服へ、
カルラと青竜軍は再び牙を剥いたのであった。
現実的に見てネメア亡き後の大陸に覇権を打ち立てるのは、
ディンガル帝国の三勢力……アルノートゥンの白虎将軍ジラーク、
エンシャントで朱雀軍と玄武軍を擁するディンガル皇帝ザギヴ、
そしてロセンの青竜将軍カルラ、多くの人はそのいずれかとみていた。
それだけに、カルラはその覇道の第一歩を、世界の注目を一身に浴びながら踏み出したのである。