エアの死

1
　テラネ生まれの無限の魂レイルースは、
夢の中で確かに『どすん』と言う擬音めいた音を聞いた。
遅れて胸を襲った衝撃に、蒸せながら目を開くと、
おぼろの闇の中に愛くるしい丸顔の少女の姿があった。
清浄白雪の精のようなその少女は、薄絹一枚を被かせながら、
胸の上に胡坐をかいてレイルースを見下ろしている。
レイルースの連れである、風の巫女エアであった。

　エアを連れ立ってロストール、エンシャント、
テラネ、ロセン、リベルダムと様々な町々を巡り終わり、
当面は大陸一周を目的としていた二人の旅も、後半に差し掛かり始めていた頃の話だ。
その夜、リベルダムでいつものように宿を取り、
二人で軽く食事をとった後、レイルースはさっさ寝台にもぐりこんでいた。
ロセンからリベルダムの航路事体はたいしたことがない。
だが、嵐に巻き込まれ、さらに海の怪物に襲われるという不運が重なってしまい、
剣技無双の剣聖レイルースとはいえ、穏やかな船旅とはいかず、疲れきっていたからだ。
だが、見て聞いて体感するもの全てが新鮮なエアは、食事中
「船がひっくりかえらんばかりになっても、そなたは甲板で大剣を振るうことができるのだな」
「あれが船酔いというものか、わらわも船中たいへんだったぞ」
と、感心したように話していた。

「疲れているところ悪いが邪魔をするぞ。ちょっと話したい事があってな。」
にんまりと不敵に笑うエアは白蓮にも紛う美しさ。
レイルースは幼いエアのまわりが朱鷺色の霞にたなびいているように見え、思わず息を呑んだ。
「このところずっと、なぜレイルースがわらわを抱いてくれぬのか考えておった。
わらわとレイルースは、これほど気が合うておるのにじゃ。
レイルース、そなた、わらわの体が子供であることを気にしているのであろう。」
ぴくりと反応したレイルースが、静かな瞳を上げた。
「まず、わらわの体の問題がある。
風の巫女は歴代の記憶と魔力を継承しているとはいえ、
わらわは見ての通り成人とは程遠い子供じゃ。
子を産むにはあまりに危険、そういうことじゃな。
これが第一の理由。
さらに、今のわらわを孕ましたら、そなたの評判は少なからず下がろう。
もちろん地位や名誉に拘泥するそなたとも思っておらん。
しかしそれが、かのレーグから受け継いだ、
最強の別名たる剣聖の名を辱めるとなれば、躊躇もしよう。
これが第二の理由。
そして最後、第三の理由じゃ。
そなたの卒直な欲求としてはわらわのような小娘ではなく
もっと肉感的で豊満な女性が好みということじゃ。違うか？」

「聞くがよい、レイルース。いかに美しい女や男であろうとも、
所詮はただ臭い皮袋につつんだ一具の骸骨に過ぎん、淫楽は臭骸を抱くに同じよ。
いずれ体は汚い膿交じりの涙を流そう。皺ばって、かさかさの皮膚が侘しくすすり泣こう。
そしてこの世は無常、その日は瞬きする間に来るのだぞ。
ソウル、法にしっかり掴まったソウルこそが真理。
わらわもそなたのソウルの輝きに惹かれたのだ。」
エアは蛇のようにしなやかな腕をあごにやった。
白いというよりも半透明な肌だ。
「レイルースよ、千年の未来と過去を見通す風の巫女たるわらわは、
肉体の美醜など外見で人は判断するなど、とうの昔にやめておる。
故にそなたが、わらわの体を気にしていることに気がつかず、
酒場の主人らの言動もなかなか理解できんかった。」
レイルースは絶叫して、
「ふざけるなっ！　妙な言い方はよせ。
俺はエアの心まで愛しているぞ！」
顔を真っ赤にして、水牛のように吼えた。
直情的なレイルースだけに、天上の花のようなエアの可憐な外見のみを愛しているかの言い回しは
彼のプライドをいたく傷つけたのだ。
「……フフ、フフフフ。それは嬉しいの。まったく、そなたの一本気な所は好意に値するな。
レイルース。そなたがわらわの事を考え、心配してくれるのはありがたい。
だが、この体がある程度、安全に子を産む事が出来るようになるまで待つ余裕はない。
仮に明日、子を産んだとしても、その子が成人まで生きていられるかどうか……。
わらわには時間がないのじゃ。」
薄絹が、少女の滑らかな肌を滑り、床に落ちた。
澄んだ緑眼、花びらのような唇、さくら色に染まりうっすらと濡れた肌、
美しいとも、艶かしいとも、形容を絶する処女の裸身だ。
清純さと妖艶さのあり得ざるほどの結晶美がそこにあった。
「レイルース。わらわを大事に想うてくれるなら抱いてくれ。
わらわが定めや運命と戦うための刃を、共に抜いてくれ。エルズのエア、一生の願いじゃ。」
エアはレイルースの両頬に手をやった。
しばし潤んだ瞳で見つめ、ゆっくりと唇を重ねた。

2
　その日は風の神殿のみならず、エルズの町までも、沈痛な空気に包まれていた。
太陽が暖かい光を降り注ぐ、穏やかな昼下がりにもかかわらず、外には人っ子ひとりいない。
住人たちはみなカーテンを閉め、家の中に篭りきっていた。
たまたまやってきた旅人や冒険者、船員と言った面々も、
その不気味さに圧倒され、宿や船から出ようとはしなかったほどであった。
――エアの死。
エルズの住人にとって、此度のそれは特に何にもかえがたい不安の響きをともなっていた。
今回のエアの死は今までとは根本的に質が違ったからだ。
歴代の巫女は天地千年を見通す力を必ず備えていた。
しかしエアの名を世襲する次代の巫女には、その力が受け継がれないかもしれないと、
まことしなやかに噂で語られはじめた時、エアの庇護のもと平安を謳歌していた人々は、
牧者を失うかもしれないという未曾有の不安に苛まれたのである。
色鮮やかな花々も色が抜け、白と黒の世界と化したような雰囲気はそのためであった。

　瘴気の根本ともいえる風の神殿の一室で、エアは穏やかな寝息をたてていた。
その横で最近はつきっきりで看病をしている、レイルースの姿もある。
彼は寝台に頬杖をつきながら、はじめて彼女を抱いた夜を思い出していた。
それが物語冒頭の夜のことだ。
あれから、十年ほどたち、エアもレイルースも年を重ね、充実した日々を送ってきた。
そして「人の半分も生きられぬ」と言う自身の言葉どおり、
彼女は常人の寿命の半分も生きぬまま死の淵にたつ。いまだ少女の面影を残す若さだ。
そして、もう一つレイルースに衝撃を与えたエアの告白があった。
「わらわも崩壊の最期から逃れらぬようだ」
「なぜだ！　なぜそんな無道がまかり通る……
第一おかしいだろう、エアは魔法で子を産み魔力を使い果たしたわけではない！」
「さぁのう。なにせすべてが、はじめての事じゃからの。
子らに魔力を全て吸い取られたのかもしれぬな。」
エアは笑って言った。
「だが、勘違いしてくれるな。
辿った人生が違えば、滅びの形が同じとも自ずと意味も変わろう。
わらわはわが人生に誇りをもっておる。……未練はあるがな。」
無念であろう。子らはまだ小さい。
授かった子らを誰よりも愛し、その成長を誰よりも楽しみにしていたエア。
それだけに逃れられぬ運命とはいえ、非業ともいえるその死は、
レイルース自身の身を切られるような苦しみであり、絶望的な無力を感じされるものだった。
それでも彼は、今まで以上に彼女の傍にあろうと勤めた。
それが運命という魔物じみた存在に、
最後の瞬間までとことん逆らったエアへの、最後の助力だった。

「レイルース。」
「ん？」
「そなたには、色々迷惑をかけたな。迷惑ばかりをかけ続けたような気すらする。」
次々エアとの思い出を思い返し続けていたレイルースは、
いつのまにかエアが半身を起こし窓の外を眺めていたことに気がつかなかった。
「だが、そなたのおかげでわらわは運命に抗い続ける事ができた。ありがとう。」
向き直りレイルースに笑いかける姿は、哀愁を帯びた美しさに加え、母性の温かみを感じさせ、
地上の人とは思われぬ神々しさを纏っていた。
「すまぬが、一人にしてくれぬか？」
「大丈夫か？　真っ青だぞ。」
実際エアの顔は青ざめているを通り越し、屍蝋のような色をしていたのだから、
レイルースが焦ったのも無理はない。
人を呼ぼうとするレイルースを制しながら、
「どうやら、別れの時がきたようじゃ……。
わらわが崩れ去る姿をそなたに見せとうない。一人にしてくれ。」
だが、レイルースは去るどころか、
既に女の甘い香りに溶けた死臭を放ちつつある彼女を、折り重なるように抱きしめた。
その感触は生きている人間の肌とは思われず、
指先には既に薄青い死斑が浮かびはじめているようだった。
「行け、行ってくれ。そなたにわらわの死の膿爛相など見せられるか！」
「『俺はエアの心まで愛しているぞ』って昔言ったよな。」
「離せ、離さぬか！　この大馬鹿者が……。」
エアが観念したように力を抜くと、レイルースは腰を抱き更に引き寄せた。
レイルースは白いあごに手をかけ、ゆっくりと腐り落ちはじめたエアに唇を重ねた。

　異変を感じ飛び込んできた神官たちが、その光景を目にした瞬間、
次々と嘔吐したのも無理はあるまい。
部屋の中は咽せ返るような悪臭の霧が濃く、風の巫女の黄土色の髪は床に散乱し、
眼球は既に溶け流れ黒い穴となり、唇は腐れ落ちて鼻のあたりまで歯ぐきが現れ、
骨の上には無数の蛆が這いまわる幻が見えるようであったからだ。
乳房もずり落ち、白い肋骨の一部が覗き、暗青色の腹も裂けて、赤い臓腑が流れ出していた。
「俺はエアの心まで愛しているぞ。」
レイルースは誰に聞かせるでもなく繰り返すと、ひしとエアを抱きしめ直した。
もはや原型を留めぬエアの体は凄惨に鳴ったが、
その口元には満足げな死微笑が浮かんでいるようにも見えた。