夜想曲

　真夜中。春とはいえグラジュオンの足跡に吹く風はひんやりと冷たい。
月の光と満天の星影が、水の都アキュリュースを柔らかい白色に染め上げている。
ひとりの女が、物音一つ聞こえないアキュリュースの大通りを、小走りに港へむかっていた。
見る人があれば、この娘の美しさに釘づけになったであろう。
それほど彼女は、ふかく澄んだ湖の精のように可憐で、幻影のように儚げだった。
金色のながい髪をふりたて、広場からの階段をかけおり、ギルドの前をすぎる。
紺碧の瞳がはっと見ひらかれ、
ひとりの女――水の巫女イークレムンが足を止めたのは、その刹那であった。

　道の真ん中に老人がひとり立っていた。
そこだけ暮れ残ったように、
しょんぼりと、夜光虫のように浮かびあがった真紅の全身鎧。
肩に担いだ大斧の刃には月光がやどり、赤い鎧の袖、下散にも燐光がくだけていた。
「イークレムン、こんな夜更けにいかがした。」
「あ……。お、お父さま。なぜここにお父さまが……。」
人間ばなれのした透明な清麗さをそなえるイークレムンの姿態に、
おどろきと狼狽の色がうかんだ。
「いや、なに。昼からお前の様子がおかしかったので、注意しとったら、
兵に金をわたしてしばし警備を甘くしようとしている様だったのでな。
いぶかしんで、わし自身が警備についておったのよ。」
老人が肩越しに港に目をやった。
港には娘の恋人である無限のソウルが彼女を待っているのは確認済だ。
「愛娘の恋路を邪魔するつもりはないが、
逢瀬に向かう現場を押さえたとあっては、いささか父としては通しにくいものじゃな。」
アンギルダンは、ふわっはっは！と豪快に笑った。

　「さて、我が娘よ。急にどうしたことだ？
二人で忍び逢うためにこのような強硬な手段にでるとは。
あやつといい、お前といい、まったくもって『らしく』ない。」
戦乱の中で出会った無限のソウルを持つ冒険者クーファと、
ミズチと語らう娘イークレムンの恋は、
爾来たがいが大陸有数の冒険者と水の都を統べる巫女になってからも、
立場を尊重しあいながら、水の流れのように一見変わらず、されど確実にゆっくりと進んでいた。
それがとつぜん、燃え上がる炎のような激しさを持ったとなれば、
両者をよく知るアンギルダンが不審に思ったのも不思議ではあるまい。
「クーファ様が『俺は二度と戻れないもしれない』と。」
「なに？」
「ロセンのフゴーさんが竜の牙という秘宝を求め、
若くて腕の立つ冒険者や戦士、魔法使い五十人を乗組員として、海の果てへ船を出されるそうです。
クーファ様もそれに参加されるのです。
『海の彼方になにがあるのか、俺は確かめてみたい。
だが、三年、五年、それとも十年、どれだけかかるかわからない。
技術にたけたワッシャー海賊の手も借りることができない。
この大航海の中、俺は死ぬかもしれない。』
お父さまの窮地をすくい、ラドラスの時も絶望の淵から私を助け出してくれたクーファ様が、
簡単に死んでしまうとは思いません。ですが、クーファ様は覚悟を決めていました。
そして、私は水の巫女。水の恐ろしさは誰よりも知っているつもりです。」
アンギルダンも、クーファを駆け出しのころから知るが、確かに彼は泳ぎが得意ではない。
そして超絶の武を誇るクーファであっても、
内海とは違う大海原の船上では、どれだけ存分に剣を振りえるか、全てが未知数だった。
例えば、船上で、かの大イカと激突すれば生死は際どい、
海中に引きずりこまれたりすれば、それこそ一巻のおわりだ。
巨大な嵐の前に船が難破してもしかりだ。
クーファが密会の約束を言い出したのも、すべて海の恐ろしさ故であり、
イークレムンもその恐れを共有しているのだ。
なにより、それほど大掛かりな冒険に出るとなれば、寄ると待つ、という
二人の関係の不文律の一つが崩れることになる。
クーファとイークレムンの関係も大きな岐路に立とうとしていたのだ。

　満月の光をあびて、浮かび上がる紅潮した顔のなんたる美しさか。
イークレムンの柔和な面持ちなかに、強い意志の力が見え隠していた。
かっとはりさけるほど見ひらいた碧眼が、アンギルダンを強く見つめ、
「お父さま、どうか行かせてくださいませ。
私も、お母さまのように、大切な人をのちの時代に誇れるくらいに深く愛したいのです……。」
その瞳からしずかに涙がつたいおちる。
（言いだしたら梃子でも動かん。心持ちまでルフェイそっくりじゃな。）
アンギルダンはやれやれとばかり、閂のような野太い腕で頭をかいた。
「好きにするがいい。悔いのないようにな。」
「お父さま……、ありがとうございます。」
イークレムンの顔が、涙を浮かべたまま、驚き、少しだけ明るくなり、
胡蝶のように銀河のしたを飛んでいった。
「まったく、イークレムンの親不孝ものめ。振り返りもせんわい。
『私は、なにもいりませぬ。お父さまさえいてくだされば。』とか言っておったのに。」
自分の親っぷりの悪さは棚にあげ、アンギルダンは呆れたようにつぶやいた。
明日クーファの口から旅立ちの話がなければぶん殴ってやろう、
と考えながらアンギルダンは少し寂しそうに水の神殿へ歩いていった。
そのころ港では、恋人同士がしばしみつめあい、
駆け寄り、固く抱き合いながらくちづけをかわしていた。

　一ヶ月ほどのち、リベルダムから西の満々たる海へ一隻の三檣帆船が出航した。
大陸有数の腕利きたちをのせた船だ。
帆はまきあげられて、満帆に風をいっぱいに受け、ゆっくりと進みはじめた。
凄まじい音をたてて鳴っている帆の下で、クーファは一人東の空を見つめていた。
おなじころ――アキュリュースの広場の一角でイークレムンが跪いていた。
彼女は胸の前で両手を組み、西の空にしずかな祷りをささげていた。